2012年の
monologue

◆◇◆

2012/12/17

自身がマズい状況に置かれているとき、

“言わなきゃバレない” or “自分から言って居直る”

どちらの手段を取るかで悩むことがある。


バレてなければ前者が、遅かれ早かれバレるならば、後者が有効な選択肢となりうる。
ときと場合にもよるが、より対応の幅が広いのは後者であろう。
前者については、優しさから、或いは、無関心から、
周囲が敢えて突っ込まないでいてくれている可能性もぬぐいきれない。
しかし、バレていないのであれば、バレないにこしたことはない。


今朝の強烈な寝癖がまったく直っていない気配が後頭部に漂い続けているのを感じながら、
15分くらい、そんなことを考えていました。


冒頭の問いに戻る。結局、僕はどちらを選択したのか。

自爆しましたよ。僕らしく。


◆◇◆

2012/11/14

翻訳家の柴田元幸さんのエッセイの中で、
著者がパソコンのトラブルを学生さんに診て貰う場面があるのだけれど、
その学生さんの言葉が素晴らしい。


「コンピュータなんて、壊れているのが当たり前なんです。いまは“たまたま”動いているくらいに考えるべきなんです」


けだし名言だと思う。

人間が造ったものである以上、
あらゆるシステムは何処かに欠陥があり、
そうした意味で“壊れているのは当たり前”と捉えることは、
とても自然な考え方であるように思える。

だからと言って、壊れたパソコンが直るわけでも問題が解決するわけでもないのだが、
世の中のさまざまな理不尽を、
多少なり寛容に受け止めることができるのではないか。

語句をちょいと弄ることで、
含蓄に富む格言をいくらでも作れてしまうことも、この言葉の魅力である。

広がりが、あるのだ。


「人生なんて、しんどいのが当たり前なんです。“たまたま”凪なこともあるくらいに考えるべきなんです」

「アイデアなんて、出ないのが当たり前なんです。“たまたま”出ることもあるくらいに考えるべきなんです」

「道路なんて、混んでいるのが当たり前なんです。“たまたま”流れていることもあるくらいに考えるべきなんです」

「賭け事なんて、敗けるのが当たり前なんです。“たまたま”勝つこともあるくらいに考えるべきなんです」

「人間関係なんて、上手くいかないのが当たり前なんです。いまは“たまたま”平穏なくらいに考えるべきなんです」

「本なんて、退屈なのが当たり前なんです。“たまたま”面白いこともあるくらいに考えるべきなんです」

「女の子なんて、いつも怒っているのが当たり前なんです。いまは“たまたま”優しいくらいに考えるべきなんです」

「バイクなんて、壊れていて当たり前なんです。いまは“たまたま”動いているくらいに考えるべきなんです」


もし置かれている状況が“たまたま”であるならば、
それが“当たり前でない”ことに対して感謝せずにはいられない、
そういう謙虚な気持ちになりませんか。

◆◇◆

2012/11/06

“TopGear”とゆうイギリスのクルマ番組で、
司会のジェレミー・クラークソンが日産GT-Rを試乗したとき、
ナビ音声の女の子を「エミ」と呼んでいた。

本当に「エミ」という名前なのかまでは知らないが、
ナビに名前を着けて愛でるという発想はあらなんだ。

最近のナビは良くできていると思うけれど、
やっぱりときどき、おポンチな指示を出したり、混乱したりすることはある。
そんなとき、方向音痴な女の子が助手席で不慣れな地図を見ながら、
必死で案内している情景を想像すれば、
ミスリードも寛容に受け止められるんじゃないか。

舌打ちをしてイラつくより、ドライバーの心理状態として健全だ。(たぶん)

知人のナビは画面に女のコの絵が現れて、
夏はビキニ姿になったり、12月にはサンタの格好をしたりするらしい。
しかし、萌えキャラでも、コロナガールみたいなLuxuryなコでもなく、
まあ無難な感じとか。

男性ドライバーが画面に目を奪われて事故を起こしかねないから、
メーカーの良心が動いたのだろうな。

多少、ざんねんな気はするけれど。

◆◇◆

2012/11/02

年頃の女のコだって気にするのだから、
恐らくは加齢臭を身に纏い始めているであろう四十路のおぢさんは、
自らの体臭をもっと気にかけるべきではないだろうか。

幸い、僕はあまり体臭が強くないのだが、
それでも気づかないうちに周りを不快にしていることはあるかもしれない。
いや、きっとあると思う。
他人から指摘されてからでは遅すぎる。
この手の事実って、他人に伝えづらいものだ。
それを言われるのは、つまり、耐え難く迷惑をかけているってことだ。

そんな強迫観念に駆られて、
いつからか夏場のツーリングに、無香性の制汗スプレーを持参ようになった。

実際のところ、どの程度役立っているかはわからない。
しかし、使用しないより気持ち的に安心できる。
衣類をサラッとした状態に保ってくれるので、
快適であることも確かだ。


秋も更け、そろそろ本格的に冬が始まろうかという時期になって、
何故、今更そんな話をするのか。


この夏、一緒にバイクで遊んだおぢさんたちに、
「これ、お勧めっすよ!」と薦めて吹きつけまくっていた制汗スプレーに、
小さく“足用”と記されていたことを、
ここにこっそり告白するものであります。

◆◇◆

2012/10/24

弟は扉を開けたままトイレをする癖がある。


「閉めろやあ」

「地震があったら怖いやんか」


下半身まっぱで、尻も拭かず外に飛び出すつもりなのか。

実際には、大きな地震が起きたとき、
狭い面積の四方を梁で囲まれたトイレとゆう空間は、
一般家屋において最も安全な場所である。

居間や寝室のように、食器棚や本棚が倒れかかってくることもない。
第一、身の危険を感じるほどの揺れであれば、
ひとが立って移動することは困難な筈だ。
(しかも移動する前に、降ろしたズボンを上げなければならない)


もちろん扉は閉じられていた方が、空間的な強度は増すのである。


そんなもっともらしい反論を構築し裏づけするために、
後でこそこそネットで調べものをしているいじらしい僕です。

◆◇◆

2012/10/21

自分ではわかったつもりでいるのに、
答えられない。

容易くやれると思っていたことが、実はまるでできない。

そんなことって人生には良くある。

そう、良くあることなんだ。


「やりたいようにやれれば誰も苦労しないさ」


もうひとりの僕が、この上ないドヤ顔で僕に諭す。


僕は衝動的に、もうひとりの僕を殴りつける。
もうひとりの僕が反撃する。
僕ももうひとりの僕にスピードキング張りのボディブローを放つ。
もうひとりの僕がにやりと不敵に笑い、
僕に顔面めり込みパンチを見舞う。


わかっているつもりでわかっていないことを指摘されると、
何故か無闇に腹が立つもんなんだ。

何が問題かはわかっているつもりなんだが。

◆◇◆

2012/09/27

昔は親しかったけれど、
長い間会っていない友だちに会うとき、
良い自分を見せようとして知らず知らずのうちに気負い、
余計なことを話し過ぎて、
後になって落ち込むことがある。

でも、友だちの目に映っているのは、
かつて一緒にばかをやっていたあの頃の僕の姿だ。

それでまあ、お互いに今でもばかなんだ。たぶん。おそらく。

友だちは、造らなくても、ふつうに友だちでいてくれる。
造った僕にも、ふつうの友だちでいてくれる。
とてもありがたいことに。

そんでもって男ってやつは、社交辞令じゃない謝意は口には出さず、
相手に聞こえないように、こっそり呟くものなのである。

◆◇◆

2012/07/27

友人が夏休みにバイクで一人旅してきたんだけれど、
もともと4泊5日の予定が、2泊3日で帰ってきたそうな。
その行動パターンが僕とそっくりで、申し訳ないけれど笑っちゃった。

ロングツーリングを前に、
気合的なものを溜めて、溜め込んで、
家を出ると同時に、スタミナ配分を考えず、とにかく一気にがーっと走る。
いい気になって飛ばしまくったぶん、
割と早く疲れて飽きがきて、
「もう充分か」てな感じで帰ってくるw

2泊3日って、だいたいそんな長さです。
そして数日間は抜け殻状態とゆう。

慣れない道をバイクで走るのって、
楽しいけど、すごーく神経を消費しているんだよね。
どんなに経験を積んでも、これは変わらない。

感覚的に「もうちょっとイケるな」ってとこで、
余力を残して切り上げたほうがいい。
僕の場合だと、オンなら一日の走行距離を350km以下、
オフならせいぜい300km未満にしておかないと、
4日目以降は緊張感が途切れて、
旅を続けるのがしんどくなってくる。

分かっていながら、敢えて同じ失敗を繰り返して、
成長のなさを実感するのも、
意外と楽しかったりするんですけれどね。

◆◇◆

2012/07/03

男の一人称ていろいろあるよね。

僕の場合は、通常、“僕”。
仕事モードだと、“私(わたし)”。

僕が“おれ”という一人称を用いるのは、
ちょっと虚勢を張っているか、何か少し、後ろぐらいことがあるとき。
例えば、「そこはイっとけよ、おれ」みたいに、
弱気に怯む自分を鼓舞する。
こーゆうとき、“僕”や“私”じゃさまにならない。

別に自分を偽っているわけではないし、
どんな一人称を使おうが、すべて僕の一面で、僕であるのに変わりはない。
でも、ときどき、そんなふうに自分を作ることに、
居心地の悪さを感じることがある。

結局、僕は“おれ”ってキャラじゃないんだな。
演じている“おれ”より、素に近い“僕”のほうがしっくりくる。

そういえば、一人称に“自分”を使うひとってなんとなく苦手です。
なんだかすごく壁を感じてしまう。
なんとなくですけれどね。

◆◇◆

2012/06/19

クルマやバイクを運転中、トンネルに入ると、
一瞬、目の前が真っ暗になって、何も見えなくなるじゃないですか。
暗さに慣れるに従い、視界は徐々に戻ってくるけれど、
外に出ると、今度は眩しくて何も見えなくなる。

人間の目が暗さに慣れることを暗順応。
明るさに慣れることを明順応といいます。

暗順応と明順応には個人差があり、一般には暗順応のほうが時間がかかる。
そして、若いひとよりは年配のひとのほうが時間がかかる。
二十代なら5秒くらいで見え始めるが、
四十〜五十代になると、10〜30秒程度。
六十代を超えると、1分以上かかることもあるそうだ。
はっきり言って、危ない。

僕ももう四十代だし、バイク仲間も同年輩か上の年代が多い。
視力の低下は、なかなかに切羽詰った問題です。

---

先日、バイク屋のボスとそんな話をしていた。

おれはトンネルを見つけると、こうやってますよ。(片目を瞑る)
で、トンネルに入ったらこう。(反対側の目を瞑る)

なるほど。

予め、片方の目を暗闇に慣れさせておけば、
そのぶん暗順応が早くなるわけだ。
原始的ではあるけれど、シンプルにして的を得た対策である。

---

想像してみて欲しい。
いい歳こいたオサーンライダーが、トンネルという天敵を前にしたとき、
かような覚悟を以って、アタックを試みる様を。



トンネル発見!突入10秒前。

ウインク&てへぺろー!(はあと)


突入5秒前!4・3・2・1 … Go!!


逆てへぺろー!!(は・あ・と)



………いや。

てへぺろは別に必要ないのだが。

◆◇◆

2012/05/29

プロテクション付きのバイクウェアが好きじゃない。
肩凝るんだもん。

要はサイズが合ってないからなんだろうけれど、
バイクウェアは試着じゃわからないことが多く、何度も失敗している。

最近のウェアはポジションがコンパクトな新しいバイクに合わせて型を取っているから、
刀のようにハンドルが少し遠目の旧い車両には先ず合わない。

しかたがないので、僕がウェアを選ぶときは、
とにかく動きやすさと身体への馴染みやすさを最優先する。
違和感が先に立ち、ライディングに集中できないのは却って危険、という考え方だ。
だから、革ツナギを除いては、
僕のウェアのプロテクションはぺなぺなのソフトパッドだけ。


しかしそれは、性善説に則ったギャンブルでもある。


どんなに気をつけたところで、事故は起きることがある。
そして、いざ起きてしまえば、
自分はミスをしていない、相手が悪かったなどと言っても後の祭りなのだ。
アタマで理解してはいるつもりだけれど、たまにシリアスな事故のニュースを知ると、
やっぱり腕を組んで考え込んでしまう。

亀仙人の甲羅(脊椎パッド)でも購入しようかしら。

◆◇◆

2012/05/25

ひとを思うという行為が苦手だ。

知ろうとする気持ちを放棄しているわけじゃない。
ひとの気持ちを探ることを、僕は下品なふるまいとして感じてしまう。
深読みして“つもり”になるのは危険だ。

そう考えるのは、僕が昔から一貫して、
自分という人間に自信を持っていないからかもしれない。
僕にひとを理解することなんてできる筈はないし、
そんな資格も僕にはないとか思っちゃう。
それは、思い込みという以上に、
信念として抜きがたく宿る感覚でもある。

理解することと受け入れることは違う。
だから、理解できなくても、ひとを受け入れることはできる。
(僕はそう信じる)
覚悟さえ決めてしまえば、
後者の方が心理的にはラクなのだ。

僕はよくそれで失敗する。

自分と相手との思いの温度差に気づかなくて。気づけなくて。

卑屈な感情がときに傲慢さに繋がるってことを、
ときどき思い知らされる。

もっとアタマの良い人間なら、
もっと上手くやれるのかもしれないけれど、
ざんねんながら、そうじゃないから。


◆◇◆

2012/05/11

ゴールデンウィークに、
CSTVの番組表で『ムーミン一挙全話放送!』てのを見つけて、
52話ぜんぶ録画した。

ウィークデイに一本ずつ見続けたとして、
最後まで見るのに約2ヶ月かかる。
毎日、アニメを楽しみにわくわくしているなんて、
なんだか小中学生みたいだ。

気持ちが若いのか。
それとも幼児退行が既に開始されているのか。

それにしても、
スナフキンはカッコイイ。

僕の立ち位置はさしずめスニフってとこですけれど。

◆◇◆

2012/03/18

ネットスラングや省略語というやつが、
あまり好きくないのです。

知らない方が悪いと言えばそれまでなんだけれど、
ついて行けないと、無駄に寂しい気持ちになるんだよね。
わからないときはこっそり調べて、
自分で使うときは、その言葉が充分に市民権を得るまで、じっくり待ちます。
(感覚的なもので明確な基準があるわけじゃないけれど)

ネットで省略語を用いるのは日本だけのことじゃないようです。
Twitterで海外のミュージシャンやスポーツ選手をフォローすると、
文字数の制限があることも手伝って、
連中は意外と省略語を使う。

英語のネットスラングは、さすがに辞書に載ってないことが多く、
翻訳ソフトも役にたたない。

単語そのものも、

u:You
thx:Thanks
bday:Birthday

文章も省略しちゃう。

IC:I See(わかってるよ)
lol:lots of laugh(うけるー)
ASAP:As Soon As Possible(なるはやでよろ)
OMG:Oh, My God(なんてこった!)
OMFG:Oh My Fa*king God!(↑の最上級)


“なるはやでよろ”は「なるべく早く宜しくお願いします」という意味ですね。
僕もたいがいに影響されているなあ。

◆◇◆

2012/03/06

ヘルパーの仕事をしている叔母から、
職場で必要なので、PCの使い方を教えて欲しいと相談を受けた。

先ず、入力の仕方(タッチタイプ)を覚えたいという。

ホーム・ポジションに両手を置き、
毎日15分程度、アルファベットの“abc…xyz”を繰り返し打ち込む。
(もちろん、ホーム・ポジションとは何かという説明から始めなければならない)
この方法で若いコなら5日もあればできるようになる。
叔母は割と年配のひとだから、2週間くらいかかるかな…。


翌日の夜、再び電話がかかってきた。


「できるようになったから、次を教えて」


たったの一日で。よほど熱心に練習したんだなあ。


「それで覚えたいことは何ですか?」

「パソコンの電源って、どうやって入れるの?」

「ええっ。電源を入れずに練習していたんですか?」

「画面が映らなくても、キーボードは叩けるから」

「……………」

「あと、コンセントって、挿さなきゃだめ?」


先は、長そうですね。

◆◇◆

2012/02/23

街角できみを見かけた。

僕はきみから目を離せなくなる。
動悸が乱れ、呼吸が荒くなる。
喉が強い渇きを覚え、
掌がじっとりと汗で湿ってゆくのがわかる。

きみと過ごした僅かな時間の記憶が、
瞬時に僕をここまで狼狽させる。

あれだけ苦しんだのに、僕は未だ、きみとの関わりを断ち切ることができない。

どんなに逃れようとも、きみは予期せず僕の前に現れて、
ときに優しく、ときには傲慢に、しかし、あらゆる手段を用いて、
僕のこころを激しく揺さぶり、痛めつける。


何度でも、何度でも。


最後にきみと話をしたのは、
そう、ええと。原付の二段階右折で検挙されたときだったっけ。

◆◇◆

2012/01/27

今冬は、既に3回も寝込んでしまった。

40℃近くまで熱が上がって、
しかも快復に3日はかかるんだから性質が悪い。
(僕の平熱は35℃台だ)

外出時や他人に会うときはマスク着用を心がけ、
帰宅したら手洗いうがいを遂行。
就寝前は風呂に入ってきちんと身体をあたため、
最も冷える明け方はエアコンのタイマーをセットしておく。
毛布はてんこ盛り。


なのに、これだ。


週末、病院は休みである。
追加のクスリを処方してもらうため、
僕が頭痛と倦怠感に苛まれながら通院の準備をしているところに、
弟(90kg)がどかどかと居間に降りてきて、
能天気に(そうみえた)のたまった。


「を、あにき。風邪ひいたって。ダイジョブ?」


ぱんつ、Tシャツ、裸足。


無条件に反射的にイラッときた。
ミートテックあなどれん。

◆◇◆

2012/01/06

昼休み。

ムーミンのマグカップに珈琲を淹れて、
ぼんやりと窓の外の風景を眺めながら、アタマの体操をする。

適当な唄を選んで歌詞を章と文節ごとに区切り、
始めの一文字を次の文節の始めの一文字と置き換えて、
それを脳裏で口づさむのだ。

説明するより具体例を示したほうがわかりやすいかもしれない。


ー ーミン っちいて
ずかしがらないで ジモジしないで ねんね
らまあ うして かるけど とこのこでしょ
からえ っちいて


脳と神経の疲れ具合を確かめるテストだ。
独り遊びだから厳密に合ってなくても構わない。
完璧な正解より、ことばの響きが愉しげなほうを選ぶ。

ちょっとまいっているときなんかは、
速やかに歌詞を変換することができず、間違いも多くなる。
予め自分のコンディションを確認しておくことで、
午後の仕事のミスを極力減らすことができる(かもしれない)というわけ。
今日のおれは切れてないから注意しなきゃみたいな。

この遊びは、ひとの名前でやっても割とおもしろいです。
“−もん ぐれ”とかね。

◆◇◆

2012/01/01

いわゆる“官軍贔屓”というやつが、あまり好きではないのです。

長いものに巻かれる的な居心地の悪さっていうか、
いじめっこの取り巻き行為にもちょっと似ている気がして。
もちろん勝者の努力と研鑽は称えられるべきだし、
強い王者は、文句なしに、カッコイイ。

でも、人間て公平に産まれたわけじゃないから。
誰もが才能に恵まれてるわけじゃない。

誰もが努力し続ける強いこころを持ち合わせているわけでもない。
持ち合わせが足りない場合はどうしたらいいんだろう。

結局、持っているもので工夫してやってくしかないよね。

卑屈にならず、なければないなりに、やっていく。
ときどきは誰かに支えて貰いながら。
そしてそのことに感謝しながら。

僕自身がそうありたいと願っている、
そんなひとを、ひとたちを、応援したくなるんだよね。

---

騒々しかった2011年がなんとか終わりました。
新しい年は、落ち込んだり、佇んでしまう時間が少なくなるといいな。
喪中だから、新年の挨拶はなし。

初っ端から支離滅裂ですけど、今年も宜しくです。

  monologe 2013  <===   ===>  monologe 2011  

etc...のTOPへ

home