◆◇◆
2013/12/24
かぼちゃの煮つけ。 小松菜と大根の味噌汁。 ほうれんそうのおひたしに柚子の皮をまぶす。 揚げ豆腐にオーブンで焼き目をつけて、 すりおろした生姜を載せる。 旧くなった米の香りは、糯米を2、3割ほど混ぜて炊くことでごまかす。 冷凍庫に保存しておいた鯵の干物を弱火で十分焼く。 冷えたヱビスのプルリングを開け、 全日本ボクシング新人王決定戦のビデオを再生する。 (全部見ると4時間以上かかる) そんな聖夜。
◆◇◆
2013/12/05
某元ひとづま女子との会話。 「Nさんは、プライベートの友人関係だとなんて呼ばれているんですか?」 「うあ?」 「たとえば、子どものころのあだ名的な」 「“まことさん”とか“葱ヤン”とか」 「…ちょっと違う」 「んなこと言われてもですね」 どうやら彼女的には、ちょっと違うらしい。 「他には?」 「んー…。“まこちん”とか“マコちー”とかゆう男友だちが少しいるね」
「ぶはっ!!!
んまっ、まっ、まこちっ…。おとっおとっ、おとっ。ぐひーっ。ふっふっふっ」
ツボに来たらしい。 某元ひとづま女子は、 突っ伏して半泣きで5分くらい笑い続けていた。 そんなに可笑しいか。 以来、まこちーと呼ばれています。やめて。
◆◇◆
2013/12/04
二十年以上もバイクに乗っているけれど、 今でもときどき、怖いと感じることがある。 免許取って、公道を走り始めたときは、ホントにすごく怖かった。 それでもしつこく乗り続けたのは、バイクって乗るまでにそれなりの投資が必要だから。 元手がかかってる以上、すぐやめるわけにはいかない。 怖いのは自分が下手だからで、 上手くなればそんな思いをせずに済むのかもしれない。 おっきいバイクに乗りたいわけでもないのに限定解除を目指したり、 バイクの構造やライテクの知識を貪ったのは、 そんな気持ちからだった。 あのころに比べれば、少しは技術も上達したと思う。 特別速くも上手くもならなかったけれど、少なくとも今では初心者じゃない。 すべてと言えないまでも、怖さの理由と対処法を理解し、 完璧と言えないまでも実践する。 そして、それを愉しむことができる。 僕がバイクに乗るとき、いちばん大切にしているのは、 昔も今も「怖い思いをせず、安全に、楽しく走ること」です。 それでもバイクに乗るのは怖い。 その思いは消えないし、消せないし、消したらいけないのだと今では思う。
◆◇◆
2013/11/13
今どきのバイクはつまらない。 そう言うオサーン、意外と多い。でもね。 人間が古くなってんだから、旧いものの方が身に馴染むのは、 ある意味、当たり前なんじゃないかしら。 そもそも僕らの世代にとっては、 旧車の方が理解しやすくて、付き合いやすい。 既に評価が定まっているぶん、ブツを選びやすいし、中古で安く手に入る。 多少の不具合があっても、オサーンライダーには笑い飛ばせる余裕があるし、 何しかする知識と経験も(たぶん)ある。 新しいバイクに対しては、逆に過大過ぎる期待を抱いてしまう。 わからないこと、知らないことって、とても怖い。 怖いから、斜に構えてみたり、去勢を張ってみたりする。 自分の感性が時代から遅れ、 ついていけなくなっていることに気づかず新しいバイクをけなすのは、 カッコ悪い行為だと僕は思う。 これ、バイクに限った話じゃない。 いろいろなものや、ひとや、考え方にも当てはまる。 もちろん感性に合わないものはいたしかたないし、 発言するしないも個人の自由なわけだけれど。 そおゆう僕もたまに新しいバイクに乗せてもらうと、 ひとしきり感心した後、 ボロくても慣れ親しんだ自分のバイクのがいいやってなっちゃうのです。 枯れてますね。はらはらと。
◆◇◆
2013/09/27
僕は自分が気に入った道具を、 飽きが来るまで、かなり長い間、しつこく、 使い続ける性格である。 ものごとをよりよくしていこうという好奇心や向上心がないわけではない。 (他人と比べて希薄であることは認めるけれど) 気に入った何かが見つかるまでは、 できる範囲で、さまざまな可能性を試してみたいと思うし、 些細な情報も見逃すまいと、 僕なりに注意を払っている。 しかし、僕自身の嗜好もその過程で変化していくため、 以前は馴染まなかったものが、するりと受け入れられるときがある。 だめだと思い込んでいたものが正解だったと、 後になって気づくことは、これまでにも何度かあった。 愚かでアタマが悪く、知識と経験が不足して、浅はかで視野が狭いばかりに、 致命的なまでに自信というものを持ち合わせていないために、 そのくせ中途半端にプライドが高いが故に、 僕はいつも大切なことを見過ごしてしまう。 後悔はしない。したところで何になる? 反省はする。同じ失敗を、できれば繰り返したくないから。 それでもときどきは、 何かがすぽっと嵌まる感覚を(或いは開ける感覚を)得られる場合がある。 大抵の場合、捜していた何かが見つかったことに、すぐ気づくことができない。 基本的に鈍いのだ。 僕はそれを、いつの間にか手にしている。 その事実に気づいたとき、 見つけた何かは、僕にとってかけがえのない宝ものとなる。 他の誰かにとってはまったくの無価値でも。 --- 初めにしようとしていた話からずいぶん逸れた。 そもそも僕はいつも同じような服を着ていて、 インナーに関しても、気に入った同じものを毎回まとめて買うので、 替えのぱんつのゴムがいっせいに伸びてだるだるになる。 そんときの情けなさときたら、 もうなんというか絶妙ですよねってことを言いたかったのだ。
◆◇◆
2013/09/08
マズローの欲求5段階説というのをご存知だろうか。 ひとの欲求は階層になっていて、 低次元な欲求が満たされることで、 初めてより高い欲求が発生するというものだ。 第一段階は「生理的欲求」。食べる、寝るといった生きるための基本的な欲求。 第二段階は「安全」。苦痛を避け、危険から身を護る欲求。 第三段階は「愛情」。組織に所属したい、他者に愛されたいという欲求。 第四段階は「自尊」。認められたい、尊敬されたいという欲求。 第五段階は「自己実現」。美や個性など、自己の可能性を追求したいという欲求。 これが満たされればそれ。 それが満たされればあれ。 人間の欲求には際限がないわけだけれど、 要するに、基本的な欲求が満たされない状態で、 より高次元の欲求に達するのは、意外と難しいことなのだ。 ちなみに『正義』は第五段階に属する。 エグい見方をすれば、 「ひとに(あるいは力づくででも)自分の考えを認めさせたい」という、 エゴに近い欲求である。 マズローさんは晩年、この5段階の上に、 見返りを求めず、目的のために自我を忘れて没頭するという、 「自己超越」という段階を説いている。 僕はこのひとの説をすべて正しいとは思わない。 けれど、この歳になってしみじみ思うことがある。 名言「偉くなくても正しく生きる」を遺したエンペラー吉田さんは、 立派なおじいちゃんだったんだなと。
◆◇◆
2013/09/07
休日の朝、たっぷり一時間以上かけて掃除した風呂とトイレを、 一晩中呑み歩いて朝帰りの弟に、いのいちばんに使用されてしまい、 とても、とてもがっかりした旨を本人に伝えたところ、 やつはビミョーなドヤ顔を浮かべて、こう応えた。 「スマソ」 やつはエアコンの効いた居間でうつ伏せになり、 ぐったりと横たわっていた。 ぱんつ一丁で。 そのとき僕は、柔らかい殺意を憶えたんだ。 「てめえなんか足蹴にしてやる」 僕はやつの背中に乗り、腰のあたりをぐりぐりと力強く踏みつけた。 「ああっ!(はあと)」 そのとき、やつが漏らした嘆息にも、 僕は柔らかい殺意を憶えたんだ。 --- 思うんだけれど、少なくとも感謝の言葉と謝罪の言葉は、 省略していいものではないんじゃないかな。 だって、「アザース」とか「スマソ」から、相手の気持ちを感じることができる? 僕はぜったいにこの言葉を使わない。 そして、ひとのふりしてなんとやらじゃないけれど、 できればムカつかずに生きたい、ひとをムカつかせずに生きたいと、 ささやかに願うのです。
◆◇◆
2013/09/03
Insanity: Doing the same thing over and over again and expecting different results. (狂気。それは同じことを繰り返し行いながら、異なる結果を期待すること) 〜アインシュタイン〜 --- 19インチの刀でサーキットを走っていると、 「どうして足回り(18インチ化)やらないの?」 「新しいバイク乗りたいと思わないの?」 真顔でそう問われることがある。 別に拘っているわけじゃなく、これでいいやと思っているだけなんです。 だってレースやろうてんじゃないんだから、 愉しく走れればそれでいいじゃん? 最先端のバイクやスペシャルなカスタムマシンに乗っているひとを否定する気はなくて、 僕なりに、分相応に、身の丈に合った愉しみ方をしているだけ。 びんぼうだし、速く走る才能ないし、 無理して手間と暇とお金かけて改造したとして、 「いいバイクだから、いいパーツが付いてるんだから、速く走らないと!」 なんて強迫観念に駆られて走ったら、 すぐコケて怪我しちゃうと思うんだよね。 ちょっとボロいくらいのバイクの方が居心地がいいんです。 所詮、僕だもん。 そんなとこです。 --- 天才のひとが生きてたら僕はこう問い返してみたい。 同じことを繰り返し行うことで、 できないと思ってたことがいつの間にかできるようになっちゃう。 そんな奇跡を起こせるのが人間てやつでしょ?
◆◇◆
2013/08/28
自分のHPを開いたとき 404 Not Found になってる夢を見て、 ひさしぶりに更新する気になりました。 --- 先日、バイクに乗るの大好き! てゆう女の子とお茶をする機会があったのですよ。 乗るって言ってもタンデムシートだけど。 自分で運転するのはめんどうだし、お金かかるから無理なんだって。 僕は女の子にはなるべくバイクに乗って欲しくないし、 後ろに乗せて走るのも、正直、好きじゃない。 自分の恋人にするなら、バイクにまったく興味のない子がいい。 本人がどうしても乗りたいというなら止めないけれど、 基本的に後ろには乗せない。 「なんで?」 「乗せるほうも乗るほうもあまり愉しくないと思うよ」 「わたしは、愉しい」 「そんならいいけど」 「どうして女の子乗せるの嫌なの?」 「万が一、怪我させてしまったらと思うと、恐くてそんなことできないよ。 傷つくのが自分だけならしようがないって納得できる」 「“乗せてくれなきゃ別れる!”って言われたら、どうするの?」 「“バイクとおれとどっちが大事なんだ!?”て答える」 ……………。 なんだかヘンなやりとりになった(´・_・`)
◆◇◆
2013/06/25
何だかアレで絡めなかった女子話(ぢょしばな)の件。 「消しゴムに好きな男の子の名前を書いて、 最後まで使い切ると両想いになれるって遊び、昔やらなかった?」 「やったやった」 「恥ずかしいから、(書いた名前を)ケースで隠すの」 「なかなか難しいんだよね」 「そうそう。気が付くと何処かになくしちゃってたり」 「強く擦り過ぎて千切れちゃったり」 「ぼろぼろに崩れちゃったり」 「最後まで使い切らなくちゃいけないんだよね」 「………」 身を呈し消えるまで尽くす消しゴムの姿にそっと自己を投影して、 女子怖えとの思いを新たにしました。
◆◇◆
2013/05/28
深夜の台所で今年初めてGに遭遇する。 丸めた朝刊を獲物に、 コップいっこを損失する激闘の末、 僕はその戦いに勝利を収めた。 すべてが終焉したとき、冷たい汗が背筋をつたい、 耳の奥で心臓が音をたてて鳴っていた。 Gの骸は厳重に梱包して、トイレに流した。 他に頼るものが何もないとき、 自分より弱いものを護るとき、 男は自らも信じられないような勇気を出せる場合がある。 いや、出さなければならないのだ。 いじめられっこの逆切れというわけでは、 たぶん、ない。 Gに狼狽する四十路男子てどうなんだ。
◆◇◆
2013/05/25
よく行く本屋のポイントカード。 500円で判子いっこ。 判子20個溜めると、次の買いもので100円引いてくれる。 480円の文庫は判子なし。 980円の雑誌の場合、いっこしか判子が付かない。 レジの後で買い忘れに気づいて、600円の書籍を買い足したりすると、 本来ゲットできた筈の判子をいっこ損する。 実際に損してるわけじゃないんだけれど、 なんだかビミョーに損した気分にさせられてしまう。 レジの横にチョコレートとかクッキーみたいな、 ちょっとしたお菓子を置くと、 全体の売り上げがぐっと伸びそうな気がするんだけれどな。 だって、あと少しで特典が受けられるとなれば、 つい余計なものを買っちゃうのがひとの性ってもんじゃない? ふつう本を読むときって、 おやつと飲みもの用意するしさ。 などとせこいことを考えつつ、 帰り路に買ったアイスクリームを食べながら、 読書に耽るmakotoさんなのでした。
◆◇◆
2013/05/15
カレーライスを作ろうと思って、 材料を切ったんですよ。 豚肉、じゃがいも、玉葱、にんじん。 そしたら、カレールウがなかったわけですよ。 具は同じだから、シチューにしようと思ったわけですよ。 牛乳とバターがなかったわけですよ。 冷蔵庫を漁ったら、いんげんとしらたきが出てきたわけですよ。 んで結局、晩ごはんのメニゥは肉じゃがになりました。 この行き当たりばったりぶりが、 何だか少し人生に似ているなと思って。 終着駅が肉じゃがなら、 そんなに悪くないのかなと思って。 “Like a Rolling Stone”て、 日本語訳は「行き当たりばったり」だと思うんだよね。 関係ないけど。
◆◇◆
2013/04/30
先週、軽く房総でも流しに行こうかなと思ったら、 シリンダーヘッドカバーからOilが噴き出しているのを見つけた。 滲みなんて生易しいものじゃなくて、もう、だくだくなの。 お楽しみはあっけなく終了。 がっかりしたけれど、 発見した直後に目の前を白バイが通過して行ったから、 走り出さなくて良かったのかもしれない。 もしサーキットでコースにOilを撒き散らしていたら、 もっと酷いことになっていた。 連休中にがっつり泊まりのツーリング予定とか入れていたら、 もっとざんねんな気持ちになっていた。 早めに発見できて良かったのだと思おう。 昨年の春ごろから、刀に乗る度にどっか壊れて(壊して)いる。 ヘッドライトバルブが切れたり、 接触不良でブレーキランプが灯かなくなったり、 ウインカーリレーが故障したり、 フォークシールが破けたり、 スロットルケーブルがほつれて切れる寸前だったり、 クラッチが切れなくなったり。 いずれも大きなトラブルじゃない。 その都度、やれやれという気持ちにはさせられたが、 刀はいつだって、僕を無事、家に帰してくれた。 トラブルがひとつずつではなく、 ぜんぶまとめて起きていたら、もっとずっと大変だった。 良かったのだと考えよう。 ものごとをポジティブに捉えるスタンスは大切だ。 --- バイクの信頼性に甘えてないで、乗るならちゃんと整備しなきゃね。
◆◇◆
2013/04/25
近ごろはバイク雑誌を殆ど読まなくなりました。 面白い面白くない以前に、 どうにも説教臭い記事が多くて、疎ましく感じてしまう。 ライダーだけでなく、ライターも高齢化しているせいかもしれないですね。 人間、長いこと生きていると、どうしても傲慢になってくる。 (傲慢なくせに臆病なんだ) あとハウトゥーもの。 なんでもテキスト化して、そのとおりにすることで安心するのが日本人気質だから、 そういう紙面が支持される理由もわからなくはない。 バイクなんて嗜好品だもの。 自分のやり方で、好きに愉しめばいいじゃんか。 あまりひとの神経を逆なでしない範囲で。 怪我だけしない範囲で。 好きにやるためには、 それなりの知識や経験も必要になってくるけれど…。 --- ああ。 上から目線でものごとを語ってしまった後は、 いつも自分が嫌になるよ。
◆◇◆
2013/04/11
僕は生きた魚を触ることができない。 干物とかは大丈夫なんだけれど。 水族館で泳いでいる姿を見るのも別に平気なんだけれど。 だってあいつら、びちびち跳ねるじゃん。 ぬるぬるするじゃん。目がイッてるじゃん。口パクパクすんじゃん。 生臭いし、うろこがギラギラ輝くし、 咀嚼しないくせに葉があったりするし。 釣りが好きとか絶対アタマおかしい。 どーゆう神経してるんだ。 「獲物に触らなくてもできる釣りもあるYo!」 会話噛み合ってねえorz 虫もダメだ。虫も触れない。 だってあいつ等、もそもそ動くじゃん。 ときどき早いじゃん。びーとか言って飛ぶじゃん。脚たくさんあるじゃん。 刺すし、噛むじゃん。 虫好きとか絶対狂ってる。 虫を餌に使う釣りがある。 やっぱり釣りなんてできない。 「ルアーやればいいYo!」 釣り好きいやあああ!!!
◆◇◆
2013/04/07
散髪してきた。 僕の散髪は月に一度。 カットしてくれるひとがいつも同じなので、お任せである。 特に注文をつけることもなく、寝てる間に終ってる。 「さっぱりした」 「(切ったのは)1cmくらいだけれど、ずいぶん変わりますよね」 「ひとの髪の毛って、何本くらいあるの?」 「約十万本て言われています」 「十万cmてことは1kmだね。髪の毛だって1kmも切れば、そりゃアタマも軽くなるわな」 「その発想は、ありませんでした!」 僕も自分の発言で気づいた。 髪の毛って一ヶ月に1kmも伸びてんだ。すごいエネルギーだ。 2ヶ月で2cm伸びたら2kmだよ。鬱陶しくもなるよね。
◆◇◆
2013/03/28
バイク乗りて意外とうじうじ系のひとが多いんですよ。 傍目には気持ち良さそーに風を切っているように見えても、 心から愉しんでいるライダーは少数派。 フィーリングが合わなかったり、 スピードに感覚がついていかなくておっかなびっくりだったり、 上手く乗れなくて自己嫌悪したり、 自分より速いひとにコンプレックスを感じてたりする。 でも負けず嫌いだから、 聞かれたらとりあえず愉しんでるって答える。 うじうじ系はセットアップに拘る。 バイクが自分の納得するコンディションに満たないと恐くて乗れない。 他人のバイクなんて、恐くて乗れない。 マシンを乗りこなそうとは考えない。 時間をかけて、自分を許容してくれるマシンを育ててゆく。 仕上がって初めてバイクを信頼して走れる。 対極に、どんなバイクでも乗りこなしてしまえるひとがいる。 うじうじ系はマシンにキャパを求めるが、 このタイプは自分のキャパを自在に操る。 多少不調だろうが、何か漏っていようが、 異音が聞こえてこようが、エンジンかかればOK。走ればOK。 走っているうちに直るかもしれないじゃないか。 バイクに乗れるだけで、いつもにこにこ幸せそう。 不慮のトラブルを説明できないSomethingでさらりと回避する。 今風の言い方をすれば、“持ってる”。 気になる部分があると、そこばっか気にしてるうじうじ系より、 愉しんでいる時間はぜったいに長い。 僕はどちらかというとうじうじ系に属するひとなので、 そんなひとにちょっと憧れる。 でも、憧れるだけで、遠くから見ているだけでいいんです。
◆◇◆
2013/03/26
“携帯電話の番号やアドレス変更しましたメール”を受け取ったとき、 “登録しましたメール”て、返すべきか迷ってしまう。 大抵は、返さない。 1:1のやりとりならともかく、 1:nの連絡事項で全員ぶんのレスがあったらさぞ鬱陶しかろう。 少なくとも僕はめんどうくさい。 ケータイメールはPCのそれと違って、 送信が成功していれば、 電池切れか電源オフか圏外か、あと端末が故障でもしてない限り、 ほぼリアルタイムでメールは届いている。 時間差はあれど情報は伝わっている筈なのだ。 でも、送ったんだから反応しろよって怒るひとが、たまにいる。 「死んでるかもしれないって思うジャンよ!」 殺さないでくださいよ。
◆◇◆
2013/03/24
怒られるのはイヤだ。 大人になると、怒られるという経験自体が減って、 免疫が弱くなるのも一因かもしれない。 相手が正論であるほど、そのイヤさっぷりは加速する。 そんなに怒らなくてもいいじゃないかと、逆切れしたくなる。 意識を遮断して時間を素通りしたい。 謝って済むものならそれでチャラにしたい。 けれど、謝って済ませよう感が相手に伝われば、事態が更に、悪化する。 ひとってなんで、こんなにめんどうくさいんだろう。 相手が怒りを引きずるタイプだと更にめんどうくさい。 僕は、逃げ出したくなる。 --- 子どもの頃、ひとが怒る理由を上手く理解できなかった。 怒っている相手の表情が可笑しかった。 何度怒られても、半ばわざと、僕は同じ過ちを繰り返した。 本気でキレられたら自分が危ない。 相手を観察し、そうならないゲージを読む。 しくじれば殴られる。 ゲームのようなものだ。 たとえ自分が悪くても、殴られたら殴り返すのがおれルール。 今でもときどき、その悪い癖が顔を出すことがある。 --- 思春期の頃は、誰が何をどう思おうと気にかけなかった。 怒るなら勝手に、怒ればいい。 嫌うなら勝手に、嫌えばいい。 正義なんて、自分の考えを他人に押し付けたいという、ただの欲望に過ぎない。 相手が正しさを主張するほど、その姿が下品に映った。 そうしているとラクだったし、 そうすることしかできなかった。 --- そのときそのときで受け止め方が変化しているとは言え、 怒られる側としての僕の態度は、昔からずっと変わっていない気がする。 反省の仕方を学ばない。 進歩がない。 進歩してどうなるのだろう。 怒られマスターな大人てのもビミョーなとこですね。
◆◇◆
2013/03/23
知人のAさん夫婦と話していて、 別の知人Bさんとこの子(3歳くらいの女の子)がかわいいよねって話になった。 …名前何ていったっけ? もの忘れ激しき世代故、誰も思い出せない。 深夜、就寝間際になってようやく思い出し、朝一番でメールした。 ちなみにAさんとこにも小学生の女の子がいるけれど、 その子も同じくらいかわいい、 でもその“かわいい”は、所謂その、犯罪的な匂いを含むものではなく、 保護者視点での“かわいい”ですよ。 …とゆう一文を、(少し迷ってから)追記した。 --- 実は子どもはとても苦手です。 キライじゃなくて、苦手。 転んで泣いている子どもをみつけたら、 素直に助けてよいものか逡巡しまう程度には、苦手。(くどい) 誰かその役割を果たしてくれるひとがいないかと周りを見渡して、 できることなら自分の出番がなければいいと考えてしまう。 誰もいない。僕はうんざりしながら、傍に倒れていた自転車を起こしてやる。 知らない大人が来てびっくりしたのだろう。 その子はすぐ泣き止んで、自分で立ち上がる。 膝を擦りむいて少し血が出ていたけれど、大したことはなさそうだ。 「もう泣かないね。大丈夫だね。えらいね」 アタマをぐりぐりと撫でてやる。 暫くの間、彼女はもの言いたげな目で僕を見ている。 間違って懐かれる前に、 逃げるようにその場を去る。 --- 子どもという生きものに対する認識を語るのは難しいです。 考えすぎかもしれないけれど。
◆◇◆
2013/03/22
卒業シーズンですね。 僕は中学生の頃、身長が145cmしかなかった。 背の順で整列すると、前から2〜3番目くらいだったように思う。 三年生の夏から、卒業までの半年間で30cm伸びた。 成長期の自覚はまったくなかった。 「何でそんなにデカくなってんだ!生意気!」 卒業式で僕は、割と好きだった女の子に下から真顔で罵られた。 要するに、身長で追い抜かれたことに気づかないくらい、 彼女にとって、僕の存在はスルーだった。 今となっては、彼女がどんな顔をしていたか、 髪型も、名前すら覚えていない。 でも、眉間に寄ったしわと黒いぎらぎらした瞳とふくらんだ鼻のカタチが、 やたら印象に残っている。 この季節が来る度、何故かそのことを想い出す。
◆◇◆
2013/02/04
「ここではない何処かへ行きたい」 そんな衝動が、バイクに乗り始めたきっかけだった気がする。 二十歳の頃の僕は自分がキライだった。 自分を取り巻く環境が不満だった。 もしかしたら、ここではない何処かに、自分を変えてくれる何かがあるかもしれない。 隣の芝はいつも青く見える。 バイクは現実逃避するための道具に過ぎなかった。 “ここではない何処か”が“何処でもない何処か”であることに気づくのに、 そう時間はかからなかった。 初めは怖いだけで面白くもなんともなかったバイクは、 やがてライナスの毛布のように、僕の人生になくてはならないものになった。 求めていたものと、実際に手にしたものはまったく違っていたけれど、 バイクに乗ることは今でも好きです。 バイクを通じて知り合うことができた仲間たちと過ごす時間も。 --- ぼんやりしているうちに、年が明けてひと月経ってしまいました。 こんな更新ペースでありますので、今年もてきとうにお付き合いくださいませ。
monologe 2014 <=== | ===> monologe 2012 |